先週、ある広告代理店のディレクターを訪ね、コーヒーをご馳走になりながらそれぞれの近況を報告し合った。

私は、奈良の家から国道308号線という、昔の奈良街道がそのまま国道になっただけのハイキングコースを歩き、生駒の暗峠を越えて、枚岡駅(東大阪市)まで歩いた話をさせていただいた。するとディレクターは、以前は家から会社まで40分歩いて通ったけど、最近は歩いてないな、と。さらに、うちの社長は大津市から比叡山を越えて京都まで歩く強者で・・・とおっしゃった後に、歩かなダメですよね、と続けられた。

それならと、私の方から、今年の秋に比叡山越えをしませんか、と提案。目標ができれば、週に何回かは歩かれるだろうと考えて、私なりのサービス精神を発揮したつもりだったが、ご本人はどう受け取られたか。

一昨日に取り寄せを申し込んでいた2万5千分の1の「京都東北部」の地図が届いたと書店から連絡があったので、1時間前に早速取りに行ってきた。

地図を開いてみると、想像以上に急峻なことに驚く。登りは少々急でも構わないが、下りが急だと膝を痛めやすいので、京都側はできるだけ斜面を斜めにトレースするコースを探す。そんな道は多くないので、すぐにコースは決まった。

坂本のケーブル駅の横から登り始め、延暦寺境内に入り、そこからは一般道を歩き、根本中堂、阿弥陀堂を経て、ケーブルひえい駅。そこから下りの山道で、途中から急坂を避けるために斜面を横切りながら南に歩き、瓜生山から白川へ降りる。降りてから出町柳の駅まで約2km。多分休憩なしで6時間くらいの行程。

その代理店の社長は確かに強者だ、と納得。ディレクターにはかなり鍛えていただかないと、とブログ経由でプレッシャーを掛けさせていただきます。

やりたいことがあるから、自由がある。あるいは自由を感じられる。私としては久々に「自由」に向き合って、当たり前のことを確認させていただきましたが、いつかおそらく今回の思考が役に立つ機会がくると思います。人生に無駄はないと思っていますから。

 

薙刀の彼女は、高校の理科の教師をめざして某私立大学理系学部に進み、そこで研究の面白さに出会い、難関国立大学の大学院にめでたく合格し、そのまま研究の道をめざすと思いきや、高校教師の道、まったく別ジャンルのSEの道など、いくつかの選択肢も残しているといいます。さらに大学院で別の新しい道に出会うかも知れません。将来への入口がたくさんある、といったイメージです。

 

いずれ彼女も、いくつかあるカードの中から1枚を選択する日が来ると思います。場合によっては研究と教師のカードが一つになり、大学の教員というカードも生まれたり、研究とSEの合体カードなんてことがあるかも分かりませんが、彼女のことだから、なるようになっていく、いいようになっていく、という感じがします。社会に出ても、違うなと思えばカードをチェンジできてしまう。その気になればまったく新しいことにもチャレンジしてしまう。彼女にはそんな余裕のようなものを感じてしまいます。

 

人生のストーリーは、一生じゃ足りないよな。

 

これは、私の好きなバンドHigh-Lowsの『14才』という曲の一節ですが、彼女の好奇心が世界から発見していく人生のストーリー、やりたいことは、一生では足りなくなるでしょう。一生に入りきれないほどの人生のストーリーは、それぞれが重なり合ったり、せめぎ合ったりしながら、彼女の中で育まれ、彼女に選ばれ、彼女の時間をつくっていきます。そして、彼女をつくっていきます。いつかまた、お会いできれば、お会いしたいです。

 

上野さん、いい人生を、素敵な自由を生きてください。

 

今回は題材に使わせていただき、ありがとうございました。

やりたいことをやる、なりたいものをめざす、というのは、やりたい、なりたいがあるから可能になります。そのやりたい、なりたいをどう手に入れるか。多くの場合、そここそが重要で、それを「夢」とも言い、それを手に入れると人は動き始めます。

 

そのためには何らかの出会いが必要です。私の場合は、テレビドラマでした。ドラマによってコピーライターをいう職業を知り、自分に向いているかも、というひらめきがあり、そこからは結局、若干の修整はありましたが、ほぼ一筋でした。

 

薙刀の彼女の場合、出会いを呼び寄せるのが、その旺盛な「好奇心」と「行動力」のようです。「もっと知りたい」「もっと別の世界があるのでは・・・」と思うと、それを知ろうと行動します。(彼女の場合は、実はこの常識を意に介さない「好奇心」と「行動力」が、「変人」の素質の両輪を成しているのではないかと思う。普通やらないでしょう、という思考回路がないか弱い。)

 

「好奇心」が強く、「行動力」があるから、色々なものや人と出会い、やりたいことにも出会う。だから、色々なことをしたいと思うが、まだ一つに絞り切れていないし、また院生1年の現時点では絞る気もない。

 

やりたいことがたくさんあるというのも、職業選択においては、それはそれで悩みなのかも知れません。やりたいことがないのに比べると、贅沢な悩みだと言わざるを得ませんが、もしかしたら、彼女に足りないのは「欲望」かも知れないと、ふと思ってしまいました。「強く何かを欲する」ということですが、ただ、この手の欲望は順風育ちでは簡単に手に入れられるものではないかも知れません。経験とか時間とかが必要かも知れません。

昨日の(4)で39年前のことを思い出しながら書いたので、ついつい長くなってしまい、(5)に持ち越しとさせていただきました。薙刀の彼女と出会ったのを機に、この39年間を「自由」というテーマで総括している、そんな気がします。

 

高校を卒業してからは、本屋は半年でやめ、バイトをしながら本を読み、20歳で登山をはじめ、スキーをはじめ、カメラをはじめ、やりたいと思ったことはできるだけやるようにしてきました。職業を探す意識は常にあったように思います。

 

あの頃は、どうだったんだろう。回りからは自由に動いているように見えたと思いますが、何になりたいかもわからない男、将来が見えない男が自由を感じるはずはなく、バイトをしながら就きたい職業を探して、時の流れに身をまかせていた。でも焦っていた。そんな感じではなかったかと思います。

 

薙刀の彼女が、私と違うのは、既にしたいことはあるのに、自分はもっと色々したいことに出会うだろうという楽観、ということでしょうか。そして、それはそれまでの経験のなせる技なのでしょうか。中学生の時からなりたい職業(声優)があり、そのために専門学校に行く、つまり進路を明確にするという人生選択の意志があったというのは、やはりちょっとスゴイと思ってしまいます。私は何もありませんでしたから。

 

"何かをやりたい"という意識の形成は、先天的な資質もあると思いますが、多くは教育のなせる技ではないかと、個人的に思っています。自分に強く"やりたい"と思うことがなかっただけに、私は常に息子の"やりたい"を大切にするようにしてきました。その甲斐があってかどうか、高校1年の彼は勉強はほどほどに、小3から続けている"やりたい"野球を思う存分やっており、それに関しては親としてそれなりに満足しています。薙刀の彼女の親御さんも彼女の"やりたい"を大切にされたのかも知れません。

意外に思われるかも知れませんが、今までの人生の中で、最もしんどかったのが高校時代だったように思います。もがいていたような気がします。自己という感覚は漠然とありながら、自己がつかまえきれない、その存在感の希薄さに、やはりもがいていたような気がします。

 

あの頃の感覚をどう表現すればいいかわかりませんが、もちろんそこには「自由」なんて感覚はなかったと思います。進むべき方向を持たないエネルギー体はどんなに熱を発しても、移動できたとしても、無意味。そんな自己イメージだったように思います。自由なんてある訳がないのです。だから何かに走る。走ることによって、とりあえずある方向は生まれる。つまり、進行方向。何かをやっている、そんな充実はあったように思います。

 

そのまま大学に行くのがいやで、この状態のまま生きていくのがいやで、いつの間にか乗ってしまっていた人生のレールから降りようと決め、大学に行くことをやめました。その決断をした途端に、広い荒野が広がりました。その感覚は今でも覚えています。相変わらず進むべき方向は定まっていないが、自分の足で立っているという実感が以前と違っていた。重力を感じた。世界が広がった。そして「自由」を感じた。あの「自由」は何だったんだろうと、いま改めて思います。ただ分かっているのは、自分で考え、行動しなければならないということだけでした。

 

親には、特に父親には申し訳なかったけれど、私の場合、あの選択は成功だったと思っています。

(1)で書いたように、私と「自由」の領域が違うというところに興味を持ち、ブログで取り上げることにしたのですが、彼女は「自由」という言葉で自分を形容されたのは初めてだそうです。確かに、人を形容するのに「自由」という言葉はちょっと大層かも知れません。

 

(そこで「自由」を考えるために、ちょっと自分のことを振り返ってみます。)

 

私は34歳で制作会社を退職しフリーランスのコピーライターとしてスタートする前に、5ヶ月間オーストラリアを夫婦で旅行しました、確かにその時は「自由」だったと思います。帰国し、平成のスタートと同時に日高事務所を設立。その後数年間はそれなりに順調で、仕事がどんなに忙しくても「自由」を感じていたと思います。やりたい仕事をやっている、そんな満足感がありました。

 

いま気付いたのですが、この二つの「自由」には少し違いがありました。オーストラリア滞在中は、自由なんて意識せず、ただやりたいことをやっていた。バイクで旅行したり、車で大陸を半周したり、やりたいことをそのまま体験していた。そんな気がします。自由なんて意識しないほど自由だった、ということかも知れません。

 

それに比べると、フリーランスになってからは、スタートして3カ月間は仕事がまったくなかったり、それでも楽観的だったけど少し不安だったりして、いろいろあるけどそれでもフリー(自由)だ、的な感じではなかったかと思います。バブルの最後の頃でもあり、一度仕事が来てからは順調に流れ出したので、自由という感覚はあまり意識はしませんでしたが、それは充実感とともにあったように思います。

 

自由を阻害しよういう要素(仕事による疲労や不安など)がいくらかあった方が、自由を意識するのかも知れません。おそらく彼女にはそのようなものはないと思うので、おそらく私のオーストラリア状態ではないかと思います。ほとんど自由を意識していない、のじゃないかなと思います。彼女からは全然違うと否定されるかも知れませんが。(文中の「おそらく」は意図的に続けて使っています。念のため)

 

もう一つ、「自由」を考える上で、整理しておきたいのが、高校時代と、高校卒業前に本屋に就職し、大学に行くのをやめた時の「自由」です。読まれる方は、きっと面倒くさい理屈に感じられると思うので、適当に読み捨ててください。次の(4)で展開します。

5年前から某大学の大学案内の仕事をしています。300名くらいの在学生や卒業生を取材していると思いますが、薙刀の彼女のようなタイプと出会ったのは初めてでした。

希望を叶えながら、それ以外の自分の可能性も感じている。それを今の段階で摘みたくないから、道を限定しない。次は自分は何をしたくなるのだろうか、と半ば楽しみにしているような気がします。

高校の頃、さしてしたいことがなかった自分を振り返り、結局、39年前に大学進学を止めたのは、したいことを探すためだったのだと、あの頃の自分を再確認。大学に入って探せと批判もされました。そして4年がかりで見つけたのがコピーライター。それ以後は「一途」と言えば聞こえはいいが、それにしがみついてきたと言えなくもない。そんな気がします。(天職とはある面、そんなものかも知れませんが)

「したい」が次々とやってくる。そんな訳でもないでしょうが、彼女は色んなことをしたくなるようで、大学院の駐車場で薙刀を振り回すだけでなく、大学時代は下宿から大学までの5、6キロを猛スピードで自転車を走らせ、日々記録更新を楽しんだりしたそうです。きっともっと色んなことに挑んでいるのではないでしょうか。

実は自転車のタイムトライアルは、私も30歳の頃に通勤でやっていたので、この辺は共通のものを感じるも、彼女は女の子。あるタイプのかわいい女性が少年っぽさを有していることはよく知っていますが、久々にその具体例を見たような気がしました。ほんと、かわいい人でした。

彼女は周囲から「変人」と思われているようだ、と思っています。大学院の駐車場で気分転換に薙刀(なぎなた)を振り回す。逆求人セミナーに参加して自分のブースに訪れる企業と面談し、逆に自分を探る。某大学の卒業生取材として、関東にある彼女の通う大学院を訪ねました。

まだ彼女は22歳か23歳。ブログで紹介したいと連絡したら、快諾の返事とともに取材では触れられなかった彼女の志望職業の変遷を送ってくれました。

中学生の時に卒業したら声優になりたいので専門学校に行きたいと思ったが、親に反対され仕方なく文系高校へ進学。大学へは生物が好きだったので理科の教師になるために農学系学部へ。そこでバイオサイエンスに出会い、研究という分野に出会い、自らの好奇心のまま、研究をさらに深めるために大学院へ進学。それから8カ月。取材で会った彼女は、あっさりとまだ何になりたいか決めていないと言い放ちました。

このまま研究職をめざし、食品か薬品の分野に進みたいのだろうと思っていました。ところが彼女は、理科の教師になるのか、あるいは逆求人セミナーで気付いたシステムエンジニアとしての可能性を選ぶのか、さらにまだ知らない何かがあるかも知れないのでその知らない何かになるのか、今の段階で決めない方がよいと思っているとのことでした。

ひとつの目標を探し求め、一度ロックオンしたら一途だった私とは違う、と思いました。私より自由の領域が広いと感じ、ブログで取り上げたいと思いました。

8月27日に、長野県飯山市で稲作をされている金崎さんを取材しました。こちらもおいしい米をつくっておられ、コンクールで金賞を受賞されたりしています。

5月に取材させていただいたタケチャンファームとの違いは、こちらは普通の農家だったこと。農協の組合員として普通に農協経由で米を消費者に届けていました。自主的に販売をはじめたのは、食管法が廃止になった平成6年からで、その点も他の農家とあまり差はありません。しかも、最初の顧客は親戚や友人・知人たち。特別なことと言えば、チラシをつくったくらいで、ほとんどは口コミで広がっていったそうです。

他の普通の農家との違いと言えば、長男が跡を継ぎ、営農に積極的に動いたこと。そして、幸いしたのが、それが食管法の廃止とほぼ同時期だったことでしょうか。

少しずつ直販で売る量を増やしていきながら、栽培法を研究し、よりおいしい米を追究。その苦労が実り、前長野県知事に"長野のおいしいお米"としてテレビで紹介してもらったり、全国の食味コンクールで金賞を受賞したり、テレビのドキュメンタリー番組で取り上げられたりしました。

この成功は、跡を継いだ長男の資質ということでしょうか。確かにそれもあるかも知れませんが、"家族がいい"というのが最大の理由ではないかと思います。両親の勤勉さと誠実さを子どもが受け継ぎ、できることを当たり前にやってきた。(それは当たり前ではないのかも知れませんが)

タケチャンファームの野木さんはエネルギッシュだったが、金崎さんはそうでもありません。仕事は夕方早めに切り上げ、日曜は休み、夜は毎日家族で剣道を習いにいきます。

二人の共通点は、自主性です。金崎さんは、おいしいお米を収穫するために、単位当たりの収量を減らし、さらに刈り取りを一般常識よりも1週間早くします。このこだわりが、多分他の農家とは違う。そして、それはどの業種にも言えることだと思います。自分の仕事で何にどうこだわるかが、差を生んでいきます。

金崎さんちのお米のホームページURLです。一度ご覧になってください。

http://www.iiyama-catv.ne.jp/~kanazaki/index.htm

5月中旬から続いた多忙期間が、1週間前に終了したのですが、その後、息子の高校の野球部の夏の地方大会のことに気が取られ(息子はまだ高1なのですが)、仕事(営業)に集中できず、やっと昨日、営業メール送信を再開するに至りました。

(息子の野球部は18日に延長11回1点差で負けてしまいました。いい試合でした。)

5月11日に送信した8社のうちの3社に送信。1社から返信をいただき、来週訪問することになりました。返信をくださる会社、ちゃんと応対してくださる会社には、やはり感謝の気持ちが自然に湧いてきます。訪問後に、留守にしていた代表者から「会いたい」と電話をいただいく等は尚更です。営業をしたからこそ出会えることや感動も色々あります。

ところで、2カ月間、どっぷり制作に浸っていると、なかなか営業をする頭に切り替らない、という気がしています。根本的にモチベーションの作り方、頭の使い方などが違うような気がしています。

制作脳と、営業脳の違いと言えばいいでしょうか。

本来が制作脳の人間だからか、営業脳→制作脳の切り替えはスムーズなのですが、その逆はそうでもない。まず、モチベーションさえ湧いてこない。来月、再来月がたいへんだよ、という理屈はわかるのですが、それがモチベーションにつながらない。こういう時、どうすればいいのか。

その一つとして試したのが、『野球部の女子マネージャーがドラッカーを読んだら』を読むこと。3月に一度読んだことがあるので、今回は、ジュンク堂でいくつかのポイントを拾い読み。少しは効果があったようです。どうしてこの本を思いついたのか、おそらくそれはこの本がヒットした理由と重なるのではないかと思います。

今朝、その本をご近所の方からいただいたので、リビングのテーブルの上に置いてきました。息子が関心を持ち、夏休みの感想文の対象図書にしてくれればいいのですが。

カレンダー

カテゴリ

リンク

Powered by Movable Type 4.27-ja